縣(延岡)の城郭


目次

  1. 縣(延岡)の城館跡一覧
  2. 縣(延岡)の主な城郭跡分布位置図
  3. 井上城
  4. 西階城
  5. 松尾城
  6. 縣(延岡)城
  7. 浦尻城
  8. その他の城

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5.松尾城(延岡市松山町/1446(文安3)年〜1578(天正6)年,1579(天正7)年〜1603(慶長8)年)



縄張図


松尾城の概要

1.解説
  1444(文安1)年から土持宣綱が築城にかかり,1446(文安3)年に西階城から居城を移したという(『延陵世鑑』)。以後,土持宣綱→土持全繁→土持常綱→土持親栄→土持親佐→土持親成の6代134年間、縣土持氏の本城として機能した。
1578(天正6)年4月10日、大友宗麟(大友義統)により落城して縣(延岡)は大友領となるが、同年11月9日〜12日の高城の戦い・耳川の戦いで島津氏が勝利した後に島津領となった。同14日には縣土持氏は島津氏へ被官し(「川上久辰耳川日記」/「都城島津家文書」『宮崎県史』中世2)、1579(天正7)年から9年間、島津義久配下の縣地頭として土持高信(1584年12月に久綱と改名(『島津国史』))がこの城に在城した(『上井覚兼日記』)。
1588(天正16)年,豊臣秀吉の九州仕置により豊前香春岳から17歳の高橋元種公が入城し,1603(慶長8)年秋に縣城(延岡城)を築城して移るまで、15年間在城した。この時期には、この松尾城を「縣城」と呼ぶ史料もみられる。

この城は、筆者の縄張り調査によって,従来考えられていた以上に広大な範囲に城域の拡大することが確認された。TR線の南側に展開する、主郭と考えられる本東寺西の丘陵(曲輪T〜V,従来はこの部分だけを松尾城として認識していた=狭義の松尾城)から,東は本東寺(曲輪\〜]T)および堀切iをはさんで松山神社・永田神社の丘陵(曲輪]U)まで、北はTR線より北の尾根(曲輪E〜H)およびその東の田部神社のある尾根(曲輪@〜D)までを城域としている。また,今後の縄張り調査によっては,その中間の尾根にまで拡大する可能性がある。いずれにせよ,現状でも南北600m,東西500mに達する大城郭(=広義の松尾城)である。
ここでは便宜的にTR線南側の「一の城」,北側の「二の城」,東の尾根の「三の城」に区分しておく。
1578(天正6)年の大友宗麟(大友義統)の攻撃をうけ落城した時に「本丸,二の丸,三の丸」の記述があり(『延陵世鑑』),従来は一の城の3つの曲輪T〜Vをそれにあてて説明していることが多いが,便宜上区分したこの一の城〜三の城がそれである可能性もある。

城取りは五ヶ瀬川と支流小峰川を南面の堀とし、南からの敵の行動を阻止する「後ろ堅固の構え」を取っている。周辺には、「ノマの下」「池尻」「岩ぐま」「堀端」「城ケ峯」「おんばらでん(御腹田?)」「馬場野」「鍛冶屋」「武人屋敷」「代官屋敷」など、城郭に関連する通称地名が数多く伝承されている。南側の松山神社・永田神社の丘陵とにはさまれた堀切iを通って東西に通じる道は旧高千穂街道であり,これが1446(文安3)年に縣土持氏の本城となって以降の城下街道である。

松尾城の縄張り図と鳥瞰図
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航空写真(1948年)

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縄張り
構成的には,堀切・空堀・竪堀・土塁を多用する一の城がもっとも複雑でより戦国的,二の城はそれよりもやや造りが粗く,三の城はもっとも単純な構造である。三の城→二の城→一の城という築城の時代的な推移を示す可能性もある。
とくに,一の城は縄張りが最も複雑であり,1578(天正6)年4月の大友合戦とその後の島津氏配下縣地頭土持久綱の修築,1587(天正15)年3月の豊臣秀長合戦およびその後の高橋元種公の修築によるものと考えられる。
高橋元種公は北九州の雄として、また、豊前(福岡県)の要衝であった香春岳城主として、1586(天正14)年に、九州平定を進める豊臣秀吉配下の毛利・小早川・吉川・黒田軍との激戦を経験している。したがって、縣(延岡)移封後に修築した松尾城には、当時の築城技術の粋が投入されていると言える。現在の松尾城跡はその時の遺構である。
 ただ、この城はもともとは石垣造りであり、高橋元種が縣(延岡)城築城の時にその石垣の石を運んで転用したとの伝承があるが、現地での複数の縄張り調査ではそのような確証は全く得られていない。当時の築城技術の粋が投入されているとは言え、これは信憑性に乏しく疑問である。

一の城はこの城の主体部であり、複雑に構築された曲輪T〜Zで構成される西域と広大な曲輪[〜]の広がる東域からなっている。主郭である曲輪T〜Zは延岡地域の中世の城の中で最も複雑かつ機能的に普請された箇所である。2つの堀切a、bを伴なって横矢掛かりに食い違う曲輪T〜Vの構造と西側の3本の尾根に展開する堀切・土塁を多用した防御機構は見事である。曲輪Uの北側には、高さ2m近い見事な土塁が残っている。最高所の曲輪Tの標高は54.5m、比高は44mである。
二の城は北西〜南東に細長く伸び、北西端は堀で向かい側の尾根と仕切られている。この中間部より南側にhとgの二本の堀切がある。とくに、堀切gは全城中最大の規模を誇り,幅12m,深さ7mにも達している。
三の城は比高約50m,Aの曲輪には土持氏の本姓である田部氏を祀った田部神社がある。この城は曲輪があるのみで,現在のところ堀切・空堀・竪堀・土塁等は確認されていない。また、三の城には北部の尾根との切断部となる堀切がみられず、防御的にはやや弱い造りである。
民家裏の斜面改修工事にともなう伐開によって現れた曲輪・土塁・堀切 堀切部の拡大
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現状は主に杉林と畑。一の城・三の城ともに保存状態はよい。しかし,二の城の尾根筋の南半分がみかん畑として全面的に開削されていること、二の城のTR線路沿いの曲輪に造成を受けて元況が失われていること,一の城の曲輪Xの東端部に地主による破壊が見られること、一の城南西部の国道218号線に面した斜面に住民の要望で改修が施されたことは、戦国期の縣(延岡)地域の拠点城郭として機能し、延岡地域を代表する中世城跡という歴史的位置づけを与えられる本城跡の文化財保護の観点からして極めて遺憾である。

(注)
大友合戦による松尾城落城の日付については、大友義統が4月15日付の感状を数多く発しているため、『延陵世鑑』をはじめとして「4月15日」とする説明が多く見られるが、
     「天正六年卯月十日、土持要害松尾落去之刻…」(「大友宗麟証判手負・戦死人数」/「佐土原文書」『宮崎県史』中世2) や
     「前十土持要害松尾落去之刻、…(天正六年)卯月十五日…」(「某感状写」/「清田文書」『宮崎県史』中世2)
などとあるように、1578(天正6)年の4月10日が正しい。

《筆者著、「松尾城」(『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書U』1999.3、宮崎県教育委員会 所収)より)》

2.松尾城の歴史
1444(文安1)年〜1446(文安3)年 土持宣綱公が築城
1446(文安3)年〜1578(天正6)年4月 土持宣綱→土持全繁→土持常綱→土持親栄→土持親佐→土持親成、6代134年間の縣(あがた)土持氏の居城
1578(天正6)年 4月10日 豊後(大分)の大友宗麟(大友義統)に攻められ落城,土持親成公自害し、縣(延岡)は大友領となる
      11月 高城川・耳川の戦いで島津氏が勝利し,縣(延岡)は島津領となる
1579(天正7)年〜1588(天正16)年 島津義久配下の縣地頭として土持高信(後に土持久綱と改名)公が9年間在城
1588(天正16)年 豊臣秀吉の九州征服により,豊前香春岳から高橋元種公が入城し,15年間在城
1603(慶長8)年秋 高橋元種公,縣城(延岡城)を築城して移る
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